【じいちゃんの仏壇】

じいちゃんの仏壇に数年ぶりにお参りした。
死んでから4年、バイトだ、仕事だってろくにお参りしてなかった自分を悔やんだ。

そりゃあ昔はやくざな兵隊で、帰ってきても酒飲んで借金千万単位で作って、親父に相当苦労させたけど、隠居してペースメーカー入れてからは戦友会の日の為だけに禁酒してたよその子供がうちの敷地で遊ぶと烈火のごとく怒ったが俺たちが遊ぶと駆け寄って怪我がないかと心配した。
弟がいくら不遜な態度をとっても「若いから」って笑い飛ばし、妹が祭りで手をつなぐと嬉しそうだった。

世間的にはDQNだけど、無償の愛を注いでくれた。
晩年は入院続きだったが、大学には行った俺がもっぱら着替えなんかを運搬する係りで接することが多かった。
「俺はいつ死んでもいいように散髪代は残してる」って老眼鏡ケースに3千円入れてるのを自慢してた。

週末の外出で看護婦さんに車椅子を往復3km押させて散髪してた(結果的にこれが最期の散髪)
俺に金渡して「塩ウニ買ってこい」だのわがままいってた(絶食中に)

最期の最期はうちの両親が来たときに、「点滴が落ちない」って孫の手でばしばし点滴を叩いて看護婦さんに怒られているところだったそうだ
「しょーがねぇじいさんやのぉ」って親父の呆れつつも親しみのある愚痴を最期にじいちゃんは逝ってしまった。

「俺は死ぬときは綺麗な下着で死ぬんや」
じいちゃんが俺にいつも言っていた。霊安室へのエレベーターで俺は担当医に聞いた。
「じいちゃん、下着変えてました?」と、先生は「ええ。毎日」と答えた。

遺体が霊安室から葬儀屋に送られて、通夜が終わると親戚のおじさん軍団が俺たちを休ませ夜を明かした。
普段は盆も正月も顔を会わせない組み合わせだったが…
「俺も爺さんにはいろいろと世話になったけのぉ」親類たちのこの言葉で生前のじいちゃんの人柄をちょっとかいま見た気がした。

通夜、装式、出棺と、お客の接待以外は喪主でない限り淡々と進むモノだ。
じいちゃんが死んだって聞いて48時間後には彼は骨になっていた。

「これは大腿骨です」って火葬場の職員さんが淡々と説明しながら遺族に骨壺へ骨を入れることを促す、その後、初七日を兼ねた精進明け。
親戚一同、飲んで寝ずの日々でじいちゃんの思い出話をしつつ、大盛りあがりだ
その中で、俺がじいちゃんが死ぬ数年前に聞いた逸話を思わず口に出した。というのも、じいちゃんは親父にも母親にも、戦争中、海軍の1式陸攻乗りだった、って

言っていたそうだが、俺が遺品整理をしていると明らかに陸軍航空隊の戦友会の会報が出てきたのだ。
親戚の面々は「聞いたことない」「知らなかった」と言うばかり…・
俺は中学時代にじいちゃんに聞いた話を思い出していた。

ビルマではイギリス軍のスパイの首を斬った。その夜にテントにサソ\リが入って刺された。って指の傷を見せていた。
親戚にも息子にも言わずに、晩年は黙々と戦友会の為に禁酒していたじいちゃんを思うとなんとも言えなくなった
中学の夏休みに、近所のうどん屋から帰る道で蝉の鳴き声をバックにじいちゃんが「首を斬るのは難しい」とか言っていたことを思いだした

俺にしか言わなかった戦争の真実…
そして晩年の恵まれながらも、心のどこかで味わっていた孤独を思うとなんとも言えない
さっき、2年拝めなかったじいちゃんの仏壇に焼酎を供えて20分ほど対面してきた。

親父の焼酎だけど、そーいう目的なら2階で寝てる親父も許してくれるよね


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